首里城は琉球王国の国王の居城だった

2019年10月31日の火災により正殿などが焼失しました。
現在は正殿を除く部分が見学可能となってます。
※当サイトでは火災前の情報を掲載してます。
※正殿の復旧は2026年を目指しているそうです。
詳しくは公式HPへ
琉球王国の国王の居城で1945年の沖縄戦でアメリカ軍の攻撃により全焼。その後、琉球大学のキャンパスとなりましたが、琉球大学の西原町への移転に伴い、復旧事業が推進され現在に至っています。2000年12月、世界遺産に登録されましたが、登録は首里城跡で復元された正殿等の建築物や石積は含まれません。
※正殿までは急な階段があり滑りやすいので歩きやすい靴で行かれると良いでしょう。南殿から正殿までは土足厳禁ですので携帯スリッパがあると便利です。
【銘文引用】
首里城跡
国指定史跡 1972年5月15日
首里城は、1429年から1879年まで琉球王国の国王の居城でした。王城は、琉球の政治、外交、文化の中心として栄え続けました。発掘調査の結果、首里城は14世紀の末頃までには築かれていたことが明らかになっています。首里城は、地形を巧みに活用して内郭と外郭に分けて築かれています。城壁は琉球石灰岩の切石で築かれ、その総延長は約1,080mです。城壁の高さは、6~15mにもなり、その厚さはおよそ3mです。歓会門が大手門(正門)で西側城壁にあります。
城内には正殿・北殿・南殿などの重要な建物が御庭(うなー)を囲んであり、正殿は、1925年に指定されました。しかし、これらの建物群は、沖縄戦ですべて焼失し、1972年から復元整備が実施されています。
沖縄県教育委員会
首里城の創建は14世紀ころと言われていますが、詳しいことは分かっていません。その後、1406年に尚巴志が琉球王国支配のための居城として以来、1879年、最後の国王・尚奉が明治政府に明け渡すまで、約500年にわたって琉球王国の政治・外交・文化の中心として栄華を誇りました。首里城には中国や日本、東南アジアなどとの交易から様々な文物がもたらされ、漆器、染織物、陶器、音楽など、琉球独特の文化が花開いたのです。
1945年の沖縄戦で灰燼に帰した首里城は、1992年、沖縄の本土復帰20周年を記念して復元されました。鮮やかな朱色に彩られたその姿は、王国の歴史・文化の息吹を伝える殿堂であり、沖縄のシンボルそのものといえるでしょう。
【以下首里城公園パンフレットより引用】
首里城を順路にそって紹介(駐車場から正殿まで)
首里城の駐車場は早い時間帯から満車になることが多いです。有料(乗用車は320円)。周辺に個人経営の有料駐車場がありますが、料金は500円程度です。
駐車場にある守礼門側の入口

この先に守礼門があります。車いすををご利用の方はバリアフリーコースがありますので、この先外に出てすぐの案内所か係員に訪ねてください(首里城公園のホームページやパンフレットに詳しいコース図が描かれています)。案内所までもバリアフリーです。

外に出たら写真中央に案内所があります。写真の案内所と赤いポストの間に小さく守礼門が見えます。
守礼門(無料エリア)

守礼とは礼節を守るという意味。尚清王時代(1527~1555)に創建。扁額の「守禮の邦」とは「琉球は礼節を重んずる国である」という意味。
園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)

歓会門の手前にある世界遺産です。
歓会門(かんかいもん)

首里城の正門。中国皇帝の使者(冊封使)など、訪れる人への歓迎の意を込めて名前がつけられた。
中国皇帝の使者「冊封使」などを歓迎するという意味でこの名がつけられました。「あまへ御門」ともいいます。「あまへ」は沖縄の古い言葉で「歓んで迎える」をいみしており「歓会」はその漢訳です。
門の両側の一対の獅子像(シーサー)は魔よけの意味をもっています。
1500年前後創建。沖縄戦(1945年)で焼失し、1974(昭和49)年に復元されました。
瑞泉門手前

階段を下ると龍樋(りゅうひ)があります。詳細は下の写真。
龍樋(りゅうひ)

瑞泉門手前にある湧き水。国王一族の大切な飲料水で冊封使が訪れた際には宿泊先の天使館まで届けられた。
漏刻門(ろうこくもん)

櫓の中の水時計で時刻を計ったことで名付けられた門。身分の高い役人も国王に敬意を表してここで籠を降りました。
【広福門】(こうふくもん)

東側には戸籍の管理をする大与座(おおよざ)西側には寺や神社を管理する寺社座(じしゃざ)がありました。この裏が券売所になっています。

広福門の前の広場から見た景色。(那覇市方向)
自動券売機

入館券を購入し、正殿へ入ります。右には窓口があります。
首里森御嶽(すいむいうたき)

城内にある礼拝所のひとつで、琉球最古の歌謡集「おもろさうし」に数多く詠まれています。神話には「神が作られた聖地である」と記されています。
券売所と同じエリアにあります。
奉神門(ほうしんもん)

「御庭」(うなー)へ続く最後の門。3つの入り口があり、中央の門は国王や身分の高い人だけが通れる門でした。この門を通ると正殿です。写真右が首里森御嶽です。門の奥では正殿の復旧作業が行われています。
首里城正殿(火災前)

ここから有料エリア。
約500年にわたり琉球王国の居城として政治・経済・文化の中心であった。
【南殿と番所】(火災前)

ここから土足厳禁(靴を入れるビニール袋を受け取ります)
写真は番所で日本風の儀式が行われたそうです。建物も日本風のようです。
ここから正殿まで裸足となりますので気になる方は携帯スリッパを持参しましょう。借りたビニール袋は正殿出口の係り員へ返します。

平成26年にできた黄金御殿・寄満・近習詰所を見学しながら正殿へと進みます。
正殿内(火災前)

順路にカーペットが敷かれています。
御差床(うさすか)(火災前)

2階の御差床は国王の玉座としてさまざまな儀礼や祝宴などが行われたところである。儀式の際には床の間に香炉、龍の蝋燭(ろうそく)台、金花、雪松などが置かれ、壁には孔子像の絵が掛けられていた。
壇の形式は寺院の須弥壇(しゅみだん)に似ており、側面の羽目板葡萄(ぶどう)と栗鼠(りす)の模様が彫刻されている。高欄(こうらん)は正面に1対の金龍柱が立ち、その他の部材には黒漆(くろうるし)に沈金(ちんきん)が施されている。
部屋の上部には、かつて中国皇帝から贈られた御書(ぎょしょ)の扁額がいくつも掲げられていた。「中山世土」(ちゅうざんせいど)の扁額はその一つであり、古記録をもとに再現している。
ここは記念撮影の人気スポットで混みあっています。

正殿から出たところ。

傾斜がついた階段です。お子さんや足腰が弱い方は手をつないで歩いたほうがいいです。

帰り道に左側の城壁をみると、下の写真のようにプレートが貼られています。

プレートの下が遺構石積、上が復元石積となっています。
首里城公園内は石畳道ですので、ヒール等の靴では歩きにくく危ないためスニーカーなどの靴が安心です。雨が降ると滑りやすくなるので歩く際は注意してください。
地図
詳細情報
公式HP | 首里城公園 |
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