ひめゆり学徒隊の慰霊塔

看護要員として戦場に動員され、亡くなっていった「ひめゆり学徒隊」の慰霊塔。ひめゆり平和祈念資料館には、ひめゆり学徒隊の犠牲者の遺品や、ガス弾によって多くの犠牲者がでた伊原第三外科壕が実物大で再現されており、ひめゆり学徒隊について学べる場となっています。
ひめゆりの名の由来
平和祈念資料館によると、沖縄県立第一高等女学校を「乙姫」沖縄模範学校女子部を「白百合」と名付けられていたそうです。その両方の名前を合わせて「姫百合」と名付けられ、戦後からひらがなで「ひめゆり」と使うようになったそうです。
ひめゆり学徒隊と沖縄戦
沖縄陸軍病院第三外科壕跡

慰霊塔の前に穴があいている洞窟が沖縄陸軍病院第三外科壕跡。
洞窟や壕のことを沖縄の方言で「ガマ」と呼ばれています。ひめゆりの塔がある「ガマ」(写真中央の穴)には当時、ひめゆり学徒を含む病院関係者や住人などおよそ100名がおり、解散命令後の6月19日に米軍のガス弾攻撃を受けて80人余りが亡くなられたそうです。
当時、薄暗い狭い壕の中で大勢の負傷した兵隊のうめき声が響く中、必死に看病するひめゆり学徒、そして必死に生き延びようとする住人がこの壕の中で共存していたのです。

ひめゆりの塔入口。
ひめゆり平和祈念資料館

悲惨な沖縄戦を後生に伝えるために、元ひめゆり学徒隊の同窓会と募金等により設立しました。悲しい気持ちになりますが、当時の悲惨さを学ぶことができる場となっています。
ひめゆり学徒散華の碑

ひめゆりの塔から車で15分程走ったところに本島最南端の荒崎という場所があります。そこには沖縄陸軍病院第三外科壕の解散命令後、ひめゆり学徒隊が米軍からの攻撃から逃げるためこの地にたどり着いたそうです。しかし、自害や米軍の攻撃で亡くなったり、怪我をしたそうです。
ひめゆり学徒散華の碑への行き方

糸豊環境美化センター(糸満市字束里74-1)を目指していくと、門の横に写真のような道が海側にあります。しばらく進むと案内看板が見えてきます。

道は舗装されておらず、車も一台分しか通れない幅です。この写真の手前に広場がありますのでそこに車を止めて歩いて行ったほうがいいです。

一人しか通れない道を歩いて行くと海に出ます。

海に出てすぐに、海に向かって左側へ行きます。写真中央左のちょっと盛り上がった岩にコンクリートの階段があります。

階段を登ります。

細い道を歩いて行くと突きあたりにあります。

ひめゆり学徒散華の碑の周辺は180度海が見えます。当時この海の沖合から軍艦が艦砲射撃を行ったそうです。このあたりの岩は尖っていて裸足で歩くと怪我をするほどです。当時は靴もはかず裸足で必死に逃げたのでしょうか。行くときはスニーカーなどの歩きやすい靴で行くといいです。
地図
詳細情報
公式HP | ひめゆり平和祈念資料館 |
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