北山国王の居城
今帰仁城跡は三山時代に北山国王の居城で北山の拠城でした。また、中国や東南アジアとの貿易も盛んで発掘調査により陶磁器などが出土しています。1416年に中山王の尚巴志によって三山を統一されてからは1665年まで琉球王府から派遣された監守の居城だったと伝えられています。石垣は「野面積み」といわれ最も古い造り方と言われています。1月中旬から2月初めまで寒緋桜がきれいに咲きます。
順路に沿って紹介
券売所
駐車場近くにあります。券売所からしばらく歩くと城壁と門が見えてきます。
平郎門(へいろうもん)
門の前で係員がチケットの確認をします。
【銘文引用】
平郎門の名称は、1713年に編集された「琉球国由来記」に「北山王者、本門、平郎門ヲ守護ス」と記載され登場します。1742年に描かれた「今帰仁旧城図」の史料にはこの場所が「本門」として記されています。2つの史料から、今帰仁城の重要な門がこの門で、平郎門と呼ばれていたことが分かります。
しかし、城としての機能を終え300年以上経った1900年代初め頃には、既に門は大きく崩落していたことが分かっています。1961年12月から翌年4月頃に現在の門の形に修理が行われました。
今帰仁城跡の城壁
ねずみ色の古期石灰岩で堅牢に築かれたいます。なだらかな傾斜面を利用して幾重にも連鎖的に連なっています。城壁の外側に一定の間隔をあけて突出部を築くことで城壁に迫る敵を横、あるいは斜めから攻撃できるように工夫されてた造りになっています。さらに、屏風型に波打つ様は沖縄の古謡「おもろさうし」に「もゝまかり、つみ、あけて」とあり、今帰仁城跡の城壁を百曲がりに積み上げてと謡い、蛇行する石積みの様子を伝えています。
平郎門を入ると石畳道と階段があります。滑りやすいので歩きやすい靴がいいです。
旧道
階段を登っていくと、途中右手に写真のような道があります。
平郎門から直線的に伸びる石階段は1960年代に整備された階段です。本来の登城道は、平郎門から城内へ向かって石階段の右手側にあります。
1980年の発掘調査によって石敷きの小道が発見されています。旧道は、大きな岩盤の谷間を利用して道幅を狭く造り、敵兵が攻め入っても大勢の兵隊が上の郭まで一気に入れないように工夫された作りになっています。
階段を登り終わると広い庭があります。ここが大庭です。
政治・宗教儀式が行われたと考えられる場所で、首里城の御庭と同様の機能を有していた郭と考えられています。七五三の階段を登ってきて大庭を取り囲むように、正面には正殿(主郭)、右側が南殿、北側の一番高い所に北殿跡があったと考えられます。北殿跡には、建物跡とみられ礎石が今も残っています。
志慶真乙樽(しげまうとぅだる)の歌碑
碑に書かれている文字
今帰仁の城 しもなりの九年母
志慶真乙樽が ぬきゃいはきゃい
大意:今帰仁グスクの南にある志慶真ムラという集落に「乙樽」という美女がいました。黒髪が美しい乙女のうわさは国中に広がり「今帰仁御神」と呼ばれ時の山北王も側室として仕えさせました。何不自由なく暮らす幸福な毎日を過ごしましたが、高齢の王には長い間後継ぎが無く、王妃も乙樽も世継ぎを授かることばかりを祈っていました。やがて王妃が子を授かり、そのことを季節はずれの蜜柑が実ったことに例え、子供のはしゃぐ声に満ちた平和な様子を謡っています。
ソイツギ(城内下之御嶽)
今帰仁城跡内には御嶽のイベ(最も聖なる場所)が2つあります。大庭の北西にあるソイツギは、「琉球国由来記」(1713年)に「城内下之御嶽」、神名「ソイツギノイシズ御イベ」と記され、旧暦八月のグスクウイミという祭祀の時、今帰仁ノロが護国豊穣等を祈願しています。御内原にあるテンチジアマチジ(「城内下之御嶽」)や神ハサギ跡と共に祭祀場として拝まれています。
御内原(うーちばる)
北殿跡の北側になる一番高いところを御内原と呼んでいます。この場所は伝説では女官部屋があったと伝えられており、城内で最も重要な御嶽があります。
特に御内原の北側からの眺望は、城内でも最も開けていて今帰仁城跡の城壁のほぼすべてを望むことができます。また、国頭の山並みや離島の伊平屋・伊是名島を眺めることもできます。特に晴れた日には、沖縄本島北部の辺戸岬の先22km洋上にある与論島(鹿児島県大島郡)を見ることができます。
御内原からの眺望。
テンチジアマチジ(城内上の御嶽)
御嶽とは、琉球固有の祭祀施設、琉球の信仰における聖域の総称で、神が存在、あるいは来訪する場所です。
テンチジアマチジは御内原の南東側、低い石垣で囲まれる御嶽です。沖縄の古謡「おもろさうし」では「今帰仁のカナヒヤブ」と謡われ、今帰仁グスクの守護神として崇められる最も神聖な拝所です。
俗にテンチジアマチジと呼ばれ、昔は御内原とこの区域は男子禁制で城内の女官によって子孫繁栄、国家安泰、五穀豊穣を祈願したと伝えられています。旧暦七月のウプウイミ、八月のグスクウイミでは今帰仁ノロによって祭祀が執り行われます。
山北今帰仁城監守来歴碑記(県指定文化財)
今帰仁按司十世宣謨が、1749年に首里王府から今帰仁城の永代管理と典礼を司ることを許されたことを記念し。故地を顕彰すべ建立しました。今帰仁監守は尚巴志が、1416年に山北王滅ぼした5年後に第二子尚忠を派遣に始まり、その後、尚真王代に第三子尚韶威を派遣し、以後同家が代々世襲で現地の監守を勤めました。
今帰仁城主郭(俗称本丸)
本丸は13世紀末頃から17世紀前期まで機能していたことがわかりました。
志慶真門郭(シジマジョウ)
ここは俗に志慶真門と呼ばれている所で、上名で最も東に位置する郭です。
志慶真門郭の発掘調査が昭和55年から57年に実施されました。発掘の結果、志慶真門郭と大庭との通路石敷きが確認されています。郭内の当初の地形はゆるやかな傾斜地で。宅地の造成工事により段差を設け、建物の健立がなされています。
建物は約6m×6m或いは4m×5m程度の規模で中に炉跡があります。瓦が出土しないことから茅か板葺の掘り立柱建物であったと考えられています。また、建物間を結ぶ石敷道や石段なども検出されました。それらの遺構は修景整備がなされています。
出土品には、武貝類・陶磁器・装飾品・子供用遊具などがあり、これらの出土遺物より「家族単位」の生活が営まれていたことが考えられています。石垣は地山を削り、自然の岩を利用して積み上げる工法がなされています。
なお、郭の南側には志慶真門跡が明らかになっています。
別の角度から志慶真門郭を撮影。城壁の曲線が美しいです。
発掘調査から見た今帰仁城主郭の変遷
13世紀末から14世紀前期(第Ⅰ期)
土地の有力者が、この地にグスクを構えることにしました。ところが、当時の地形は岩山で平坦地はありませんでした。そこで先ず、山頂部の岩盤を削り平らにし、次に東西に傾斜した斜面に土留めの石積みを築き、その内側に土を入れ版築敷地を造成しました。館は、掘立柱の建物でしたが、周りを柵で囲い、外敵の侵入に備えていたと考えられます。
14世紀中期(第Ⅱ期)
柵の代わりに石垣が築かれます。また、掘立柱建物にかわり、礎石建ての正殿(翼廊付基壇建物)が建てられました。いわゆる城としての形が整います。また、地元産の土器を多く使用していた第Ⅰ期に比べ、中国産の陶磁器の使用が増え、今帰仁城の勢力が強くなっていく様子がうかがえます。
14世紀後半から15世紀前期(第Ⅲ期)
今帰仁城が、最も栄えた時期です。第Ⅱ期の敷地よりも、更に拡張され主郭が現在の面積に達しました。また、この時期に初めて文献資料にも登場し、とくに、中国との貿易が行われていたことが分かっています。それを裏付けるように中国産の陶磁器が最も多く大量に出土しています。建物は礎石建てで、一棟は敷地南寄りに確認されました。
15世紀前期から17世紀前期(第Ⅳ期)
中山王(尚氏)に征服され、今帰仁城の繁栄の時期が終わりました。しかし、中山より遠隔地にあるため、同城が謀反を起こすのを恐れ、それを阻止するため中山より監守(役人)が来て、北部地域を治める拠点として使用された時期です。敷地中央に並んでいる礎石は、その監守時代の建物跡です。
今帰仁城跡の銘文引用。
今帰仁城跡周辺のスポット
- 古宇利島
- 美しい海が広がる絶景スポット
- 古宇利ビーチ
- 古宇利島にあるきれいなビーチ
- 古宇利オーシャンタワー
- 古宇利島の約海抜80mからの絶景を楽しむことができる施設
- ハートロック
- 古宇利島のティーヌ浜にあるハート型の岩
- 沖縄美ら海水族館
- 来館者数日本一の水族館
- 備瀬のフクギ並木
- フクギ並木が癒しの空間
地図
詳細情報
営業時間 | ・通常期間(1~4、9~12月) 午前8時~午後6時(最終入場午後5時30分) ・夏期延長期間(5~8月) 午前8時~午後7時(最終入場午後6時30分) |
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定休日 | 年中無休 |
料金 | 大人600円、小中高360円、小学生未満無料 ※障がい者手帳、療育手帳をお持ちの方は、券売所窓口で手帳をご提示でご本人様と付き添い1名様の観覧料は免除となります。 |
所要時間 | 約1時間~1時間半 |
アクセス | 那覇空港から高速道路を利用して約1時間40分 |
住所 | 沖縄県国頭郡今帰仁村字今泊4874 |
駐車場 | あり(無料) |
トイレ | あり |
バリアフリー | 未対応 |