沖縄戦時の激戦地で、普天間基地も一望できる。

沖縄本島中部の宜野湾市にある嘉数高台公園は沖縄戦時の激戦地で、今でも日本軍が使用した「トーチカ」があり、戦争について学べる場でもあります。今は公園としてきれいに整備されていて、世界平和を願う地球儀をイメージした展望台(写真)があります。そこからは那覇市や浦添市、遠くは読谷村や米軍の普天間基地も見えます。離発着する米軍機(オスプレイ等)を見るのでしたらここもいいでしょう。
展望台からの景色

那覇市方向。

宜野湾市、北谷町方向。遠くは読谷村まで見えます。

普天間基地が一望できます。

約20機のオスプレイが見えます。米軍機は平日に飛行していますが、土日はめったに飛行しません。
嘉数高台公園にある戦跡
【銘文引用】
米軍は1945(昭和20)年4月1日、沖縄本島の中部西海岸から上陸し、南下しました。嘉数を中心とした戦線で、待ち構えた日本軍と最初の大規模な戦闘を始めます。戦闘の末に、日本軍は撤退し戦線は浦添、西原、首里そして南部方面へと移りました。
嘉数住民はテラガマ、チヂフチャーガマなどの洞窟に避難していました。日米両軍の戦闘が始まる前に、南部方面へ避難した人と嘉数に残った人がいましたが、いずれも戦闘に巻き込まれ、住民の半数以上が亡くなりました。
嘉数周辺と本公園には、住民が避難した洞窟や日本兵が利用した「ミーガー」、戦闘で使用された「トーチカ」、戦闘を物語る「弾痕の塀」、沖縄戦で亡くなった嘉数住民の「嘉数の塔」、戦死した京都出身の「京都の塔」などの慰霊碑が多数点在しています。
トーチカ

トーチカとはロシア語で「点」や「拠点」を意味する軍事用語で、防御の中心となる陣地のことです。このトーチカは鉄筋コンクリート製で、厚さは最大1mあり、内部は2m四方で大人が3名ほど入れる広さです。北側の比屋良川(ひやらがわ)に向けて、射撃するための銃眼(写真の四角い穴)が2か所あり、そこから小銃や機関銃などを出して米軍を攻撃しました。
トーチカには弾痕が無数にあり、鉄筋がむき出しになるほど破壊され、激しい戦闘を物語っています。

トーチカの内部は狭く、薄暗いです。
陣地壕

嘉数に駐屯した日本軍は、嘉数高地を中心とした周辺地域にいくつもの陣地を築きました。陣地壕の構築は、1944(昭和19)年の夏ころから開始されたようで、朝から夕方までの作業が毎日続けられました。兵士だけでなく、嘉数や周辺地域からも、老人や女性を含む多くに人々がかりだされました。
陣地壕は、石灰岩をくりぬいてコの字型に構築され、側壁には落盤防止用の坑木の跡もあります。嘉数高地には日本軍の主陣地が置かれたために、このような陣地壕が無数に構築されました。
写真は陣地壕の出入口で内部には約200mの壕があるようです。

陣地壕内部の写真です。琉球石灰岩を人力で掘るのは相当大変だったことでしょう。
嘉数高地は、第二時大戦中に作戦名称第七〇高地と命名され、藤岡中将の率いる第六十二師団独立混成旅団、第十三大隊原大佐の陣頭指揮で約千人の将兵と約千人の防衛隊で編成された精鋭部と、作戦場自然の要塞の上に堅固な陣地構築がなされたため十六日間も一進一退の死闘が展開されたが遂に日本軍は矢尽き刃折れ後退したが、しかし米軍にとっては「死の罠」「いまわしい丘」だと恐れられた程に両軍共に多くの尊い人命を失った激戦地である。この嘉数高地七〇高地は、旧日露戦争の二〇三高地に値する第二次大戦の歴史の上に永代に残る戦跡である。(銘文引用)
慰霊碑

京都の塔と嘉数の塔
写真中央に「京都の塔」、右側に「嘉数の塔」があります。京都の塔は、京都府出身の将兵2,530人余の人々のご冥福を祈るために京都府市民によって建立されたものです。
嘉数高台展望台への行き方

展望台方向へ
公園の無料駐車場に車を止め、展望台がある方向へ歩いて行きます。山の上にある青い球体が展望台です。

難所の階段と弾痕の塀
階段が見えてきますので登って行きましょう。階段と階段の間にあるのが弾痕の堀です。

展望台近くの階段の途中に陣地壕へ行く道があります。展望台まであと少しです。

展望台周辺の写真。
地図
詳細情報
営業時間 | 見学自由 |
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定休日 | なし |
料金 | 無料 |
所要時間 | 30分~1時間 |
アクセス | 那覇空港から高速道路を利用して約25分 |
住所 | 沖縄県宜野湾市嘉数1 |
駐車場 | あり(無料)夜間は閉鎖されます。 |
トイレ | あり |
バリアフリー | 遠回りにはなりますが、公園の周りに歩道があります。 |
公式HP | なし |